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Tuesday, August 19, 2008

今なぜか、おニャン子ブーム再来である。(イヤ、自分の中でw)

巷で密かなブーム…でもなんでもなく、今なぜか突然、猛烈に『おニャン子』という存在が他のナニモノよりも大きくなっている。
なんで?
さあwww

きっかけは確かにあった。CDラックの整理をしていたら、たまたま『夢カタログ』を見つけ、久々に聴いてみた。確か10年以上前に中古屋で見つけたものだったか…
ただ、この行為は今まで1~2年単位で必ず起こることだったんですが、今回程、嵌ることはなかった。しかし、何故この時期、おニャン子解散からすでに21年目を向かえる今、これほどまでに心奪われてしまうほどになったのか全く分からない。数年間隔で行われる同窓会や再結成にも何も反応しなかったのに…
20数年前、まだ高校生だった頃、”夕ニャン”を見るために学校から早めに帰宅するあの頃の気持ちと同じものを今感じている。心の中に何だか分からないモヤモヤが漠然とあったあの頃の気持ち…
当時16歳だった自分にとって、おニャン子クラブ、夕やけニャンニャンはまさに青春の1ページだった。とはいっても、レコードやグッズに金をかけるわけでもなく、レコードはレンタルで済まし、SailorsもHip's Roadもひとつも持ってなかった。コアなファンからすれば完全なライトユーザーだったかも知れないけど、当時ミュージシャンを目指して日夜練習に励んでいた自分は、いずれプロとして成功した暁には後藤次利の様な存在になって、”プロデュース&おニャン子と結婚”という妄想に耽っていた、別の意味でコアなファンの一人だった。
おニャン子の中では、新田恵利、国生さゆり、河合その子、美奈代、満里奈といったところが好きだったが、そんな中でも一番好きだったのが、会員番号14番、富川春美、通称”お富さん”。本気で結婚したいとまで思ってたほどに惚れてたwww(八重歯がかわいかった)
お富さんは当初、存在感が薄い方だったが、フロントどころが次々にソロデビューしていくにつれ、『お先に失礼』あたりから次第にフロントに立つことが多くなった。それまで自分ひとりのお気に入り的なレア感があったのに、目立つ様になると”自分だけのお富さん”でなくなるうれしくも悲しいジレンマに陥ったのを覚えている。
ま、そんなおニャン子、夕ニャンも、バンド活動が本格的になるにつれテレビを見る時間も少なくなり次第に気持ちも離れていってしまうわけです。「ああ、こうやって大人になっていくんだなあ」なんてしみじみ思ったもんですよ。ワケわかんねーけどwww
夕ニャンを見なくなった86年後半から87年の解散までは、曲も全然分からないし、誰がソロデビューしたかなんてさっぱりわからなくなってしまっていて、すでにおニャン子も自分の中では過去のモノと化していた。その頃彼女も出来たしね。過去の色々な妄想も全部飛んじゃってたし。まあこんなカンジで自分はおニャン子から卒業したわけですが、夕ニャン最終回だけはしっかり見ましたよ。泣いたよ。マジで。一度は気持ちもおニャン子から離れてしまってったのに、この最終回は、なんか、青春が終わってしまったような感覚。オールナイトフジ女子高生スペシャルからずっと見ていたし。後にオールナイトフジ最終回で感じた”ひとつの時代の終焉”と同じ感覚だった。「”瞳の扉”っていい曲だよな~」って、感じたもの。
いま、家にある86年の夏あたりまでの録画してあったビデオを発掘してあの頃に浸り、一番の愛聴盤、『夢カタログ』を聴いてしんみりしてるところ。『アンブレラ・エンジェル』『恋愛お見舞い申し上げます』『窓から見てるP.T.A.』など好きな曲がたくさんあるけど一番好きなのが、『星座占いで瞳を閉じて』。いい曲だよね。今聴くと大爆笑な歌詞だけど…


夕ニャンのなかじ卒業時の『星座占いで瞳を閉じて』

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Tuesday, June 13, 2006

第11回 : De-Lax

間が空いてダラダラになっていしまったが、まだ続きます。
今回は、De-laxを。

De-laxは、BOΦWY亡き後のロックの進むべき道の一つの可能性を示していたバンドだったように思う。ただ、あまりにも宙也をはじめとするメンバーが、他のブームにのっかているバンドとの差別化を図るようにか、または、高橋まことが参加しているというネームバリューを得てか、新人クンだったギターの榊原以外は物凄く大物ぶっていたのが当時から鼻についていた。
しかしそれと音楽は別物で、音楽のほうは、宙也のアレルギー時代のイメージが強かったせいで、どうしてもニューウェーヴ的な捉え方をしてしまうのだが、ソウル、ファンク寄りのサウンドで、サウンド面を仕切っていた京極の趣味が前面に出ていたのだろうか。
まだまだ、あまたのバンドがBOΦWYの影を引きずってる中、De-Laxは、ソウル、ファンクの影響下にロックを置くことによって、新たな流れを作り出したように思える。
まるでマイケルジャクソンのようだった宙也のルックスとともに、当時はかなりはまったバンドのひとつ。

高橋まことが加入して、フォーライフからデビューする直前、一度だけ、ロフトで見たことがある。ある程度の音楽的予備知識を持ってのぞんだギグだったが、ハコのせいもあってか、音的に、特に、京極の小技的な細かいニュアンスが伝ってこなかった。ただ、そこはやはり高橋まことの存在は大きくて、このヒトのドラムでムリくりまとめられてた感があった。
自分的には、1stからの、ツーバスなりまくりの「熱帯LADY」と高速ファンクw「Serious Moon」が好き。

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Tuesday, May 30, 2006

第10回 : バンドブームとは何だったのか

さて、例の「御三家」のメジャーデビューとBOΦWYのブレイクによってもたらされた「バンドブーム」は、今となってはお祭り騒ぎ以外のなにものでもないんですが、当時は自分自身もこのブームの中に身をおいていたワケで、結構マジになって熱くなってました。
このブームの特徴は、メジャーもマイナーも、プロもアマチュアも一つのムーヴメントとして成り立っていたこと。イチオーディエンスとしては決して逢うことの出来ないメジャーなアーティストが、実はとっても身近な存在として居たりする。
更に、雨後の筍の如く増殖していた無数のBOΦWYのコピーバンドの連中は、ルックス的に見栄えがよかったり、オリジナルを作ってライブをやりそれなりの動員が出来ればプロになるのはさほど難しいことじゃないという幻想がはびこっていた。かくいう私もその一人だったりしますがw
当時はやっていたのが、デモテープ等を聴いてもらって、ライブハウス独自のブッキングに入れてもらう従来通りのやり方ではなかなか出ることが出来ないライブハウスを「貸切」という形で数バンドで金を出し合って出演してしまう荒業があった。
所詮はBOΦWYコピーの派生というオリジナリティーしか持ち得ないあまたのアマバンドは、出演料のギャラを逆にライブハウスに払う形でチケット裁きというリスクを背負いながら、いとも簡単にかつてメジャーなアーティストが出演していた渋谷のライブインなど、名の通ったライブハウスに出演しては感動に浸っていたものだった。

当時自分らを含むバンドをやる奴の誰もがプロになることを夢見て、BOΦWYの影響下にあるブームに踊らされていることを意識しながらも、「自分たちは別」「いつかは東京進出」
と、独りよがりなパフォーマンスを身内ばかりの観客に向かってぶつけていた。
まず、ほとんどのバンドが、ここから先のステップには進めることが出来ず止めていく。

では先のステップとは何か?

自分の場合は、たまたま対バンしたバンドを見に来ていた東京の奴から声がかかって、抜けたメンバーの代わりにヘルプでいいから入ってほしいというのがきっかけだった。
そのバンドは、アマチュアでは結構名の通っているバンドで、某メジャーバンドとも親交があるというジャンル的にはハードコアとビートパンクの中間的なバンドで、このバンドに帯同して関東近県の小規模なツアーをしたりと、新宿ロフト以外の主要なライブハウスはほとんど出演し、インディー系のプロダクションに所属するようになると、ちょっとしたテレビ出演とデモ用のレコーディング…と着実にステップアップしているような感じがしていた。
しかし自分はその頃、HOUSEやHIP HOPなんかのDJやスタジオのエンジニアへの興味が強くて、すでにバンドの上昇志向には興味がなくここでジエンド。アメリカへ逃亡してしまった。

さて、当時は自分が辿ってきた道はいくらブームの世とはいってもなかなか簡単には出来るものではなかったんですが、コピーを脱却してオリジナルを始めた辺りのバンドを惑わす幻想がこのブームに拍車をかけます。
「ホコ天」と「イカ天」です。
「ホコ天」とは言わずもがな原宿の歩行者天国に寄生する、出演する箱すら確保するのが困難とおぼしき十羽ひとからげのバンド寄り合い所。ここが注目され始めると、それなりに名の通ったバンドも売名行為の名の下、現れるようになる。ここから出た、リモートとかKUSU-KUSU、ジュンスカなんかは当時からどこがいいのかさっぱり理解できなかった。
そして、「イカ天」は、テレビのアレです。TBSで土曜の深夜のやっていた、後に続々とデビューしていく、資本に擦り寄ってプライドを捨ててしまった挙句、潰され消えていったバンドをあまた輩出した伝説のバンドオーディション番組。
もちろんすべてがそうじゃなかった訳だけど、リトルクリーチャーズとブランキージェットシティは自分的には別格。誰もが吉田健にクソボロ言われるのを覚悟しながらもこの番組に出演してプロになる夢を見ていたバンドマンは少数じゃなかったハズ。
しかし、ブームに拍車をかけたこの二つの流れは「誰でも参加できる」ことで起こりうる質の低下を顕著にさせて、一つがはやると同じようなバンドが乱立、終息の繰り返しで、このブームの寿命を縮めることとなり、また、BOΦWYの解散を機に急速に勢いをなくしていく。

時を同じくして、バンドブーム全盛だった一方でユーロビートに端を発したダンスブームは
、ボビーブラウンの登場でニュージャックスイング、HIP HOP、HOUSEへと広がりをみせ、バブル景気で浮かれる世は第2次ダンスブームへと突入していく。
そんなブームの中心的な存在だったのが、2台のターンテーブルを使って新たな音楽を作り出せる無限の可能性を秘めたDJという存在。DJの存在を知った時、4人で力を合わせて的な意見のぶつかり合いとも無縁で、一人でバンド以上の事が出来てしまうと気づいた時、バンドブームによって作り出されたその価値観は崩壊したのかもしれない。
もちろん、そんなダンスブームだって、後に『ダンス甲子園』や『DANCE DANCE DANCE』などによって一般向けに翻訳されて一過性のものとなっていくのだが。

話を戻そう。
このブームは前項でも述べたが、今振り返ってみれば自身がそのブームの中に身を投じていたこともあって他のブームよりは身近に感じていたが結局は『お祭り騒ぎ』だったんでしょうね。
第1次ディスコブームからこっち、ガンプラブーム、82年デビュー組を中心としたアイドルブーム、おニャン子、そしてバンドブームと、一過性のものとして記憶の中に組み込まれてしまったが、夢中になっていろんなバンドを見たり聴いたり、自ら演ってみたりと関わりが他のものより深かった分、今となってはたとえ『お祭り騒ぎ』であったのかもしれないが、そこからいろんなものを吸収出来た自分にとっては一つの貴重な時間ではあった。

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Monday, May 29, 2006

第9回 : キャ→

当時、パンクスどもの心をつかんで離さなかったキャ→。
「ピラニアBOY」に始まって「ピラニアBOY」に終わる。
私自身も、ハッキリ言って「コレ」しか知りません。ただ、ZELDAのサヨコやチホぐらいしかルックス的にアイドルとなりえなかった時代にキャ→は音楽云々でなくそのルックスで、銀蝿における岩井小百合的なポジションだったといえばわかりやすいだろうか。
このキャ→、後にプッツリ音沙汰がなくなってしまう。いったいどうしたんだろうか。志向性違いから解散したのだろうか?そのまんま続けてればブームに乗ってそれなりの活動が出来たかもしれないのにねえ。
まあ『ピラニア』だけで食ってくことも出来ないんで無理だったんでしょうけど。
その代わりといっちゃ何ですが、ブーム華やかしりころはキャーを真似たアマチュアガールズバンドがそのルックスを真似てプリプリのコピーに精進していたのは今となっては、
「FLASH BACK SCHOOL DAYS」by TOMOYASU HOTEI
って感じですね。

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第8回 : BUCK-TICK

バクチクを「インディーズ」という文脈で語るのはちょっと語弊があるかもしれない。

バクチクは「御三家」以降の付加価値としての「インディーズ出身」という要素を求められて最初のバンドだったのかもしれない。
というのも、インディーズはあくまでも「メジャーへのステップ」というのがアリアリで、
「太陽レコードも商売してるな~」
というのが率直な感想だった。
右翼のオッサンがヴォーカルみたいなバンド(長すぎて名前忘れた)のサワキカスミが主宰の太陽レコードからバクチクって違和感バリバリで(後にソフトバレエもデヴュー)何か政治的な思惑があるのではと勘ぐりたくもなりますが…。
デビュー作『HURRY UP MODE』は、後にプレミアが付くほどのものだったが、当時は普通に手に入ったしあのルックスがなければいたってシンプルなビートバンドのソレでしかないんですけどね。

恐らくはこういうことでしょう、バクチクだけでは当然ないことなんですが、前にも述べたとおり、インディーズ、バンドブームの世で、「インディーズ出身」という付加価値をあえて付けるイメージ戦略なんでしょうね。そうじゃなければ「ワンステップ」など必要とせずどのバンドもすぐにデビューしてますわな。
例えばBOΦWYとスライダース。ストリートよりだったBOΦWYと、ソニーのオーディション出身だったスライダースとではBOΦWYの方が「そういう」イメージ的には上という印象がありますからね。

バクチクは、BOΦWYと同じ群馬出身。そのせいもあってか、数あるBOΦWYフォロワーの中でも筆頭的存在で、群馬時代にはアツシが、氷室に「氷室越え」宣言をして氷室にぶっ飛ばされたという事があったというが真偽のほどはいかに。

さて、太陽からアルバム発売後に「バクチク現象」と銘打って始まったシリーズギグは、豊島公会堂からはじまり、途中、全国ツアーをはさんで、業界お披露目の側面を持つライブインでの「Ⅱ」(後に3曲入りビデオでビクターからリリース)まで、街中で見かけるなぞのステッカーとともに、まさに「バクチク現象」起こし、バクチクの知名度は急速的に浸透していく。

ビクターから『SEXUAL xxxxxx』でデビュー。この頃はテレビの深夜番組でライブ番組が多く、出まくってた印象がある。プロになっても一向にうまくならないギターに苦笑しつつもソングライティングの才能は非凡さを窺わしていた今井。テクニックは付加価値でしかないということ無意識のうちに提示した初めて出てきたYMO世代のギタリスト。
インディーズ時代から伸ばし続けた髪が頭の大きさの2倍ほどになった頃、次作『SEVENTH HEAVEN』発売。世間一般のバクチクのイメージはCMソングに使われた「Just One More Kiss」と「SEVENTH HEAVEN」とともに終わり、コレを境にダークな難解な世界に入っていく。

自分的には、バクチクの最高傑作にして問題作。『TABOO』発売。それまでほとんどの詩を手がけていた今井はなりを潜め、アツシの難解な詩はオートモッド直系といってもいいほどのダークな世界が全体を支配して、BOΦWYのフォロワーからの脱却を試みる。この直後、今井のLSD所持、逮捕で活動中止に。

『悪の華』で復活後は、前作ほどの衝撃さはないものの、前作の世界を継承したこのアルバムがターニングポイントになって、現在へとつながっていく。

現在に至って、メンバー各自がバクチクヘアーを止めた傍ら、数年前、布袋の「バンビーナ」のバックでアニイの姿を見たときは相変わらずのヘアースタイルでこの人だけはかわってないなぁ…とほっとした。ていうか、苦笑。

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Sunday, May 28, 2006

第7回 : KENZI

さて、今回は、

チンゲ…、もとい、ケンヂ&トリップスでいきたいと思います。

北海道から出てきたケンヂは、自分的にはビートパンクの祖。という認識になっています。
今まで欠いてきたことにも言えることなんですが、自分のうろ覚えな記憶だけで書いているので、資料等を見て「コレ!」と決定的に言える表現を持ち得ないところはあしからず。

ケンヂのインディーのファーストアルバム、
『Bravo Johnnyは今夜もHappy』
は、この手の(といっては失礼ですが)バンドの中ではさすがに「祖」だけあってスピード感あふれる完成度の高いアルバムになっています。今聞くとケンヂのあのカン高い声もなんだかな~的なものがありますが、当時はそれでも「イチ個性」として認識されていました。
例に漏れずケンヂもメジャーデビューするんですが、何だったんでしょうね?当時どのバンドもクラッシクと呼ばれるエヴァーグリーン的なものをパンクのアティテュードでカバーするのが掟なのか、『ダイアナ』が入ってたりする。8ビート、ツーコードのつまらないものばかり。それでも『星空の夜』は名曲。
自分的には、メジャー2枚目の『BOYS COLOR』の方が好き。
何故か加入したjiaenのギタリスト、米村の畑違いなソリッドなギターがパンク色を薄めている。こっちのほうが、ケンヂにはあっていた感じ。しかし、その後すぐ脱退、例のラフィンの事故直後の野音では、すでにいなくなっていた。

ケンヂを聴いていたのはここが最後。その後は、どうしてたんでしょう?
当時の自分的な興味ではここらでバクチクに流れていってしまったからなあ…。

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Friday, May 26, 2006

第6回 : THE BLUE HEARTS

なんだか仕事の合間の日課のようになって来ました。開始三日目で、第6回目。
今回は、ブルーハーツを取り上げたいと思います…。

ブルーハーツとの出会いは、衝撃でした。
当時は、地元のアマチュアバンドとともにこれからメジャーデビューしていく勢いのあるバンドと大きなホールを借り切ってやるイベントがしょっちゅうありまして、自分は、とある地元のバンドのローディーとしてたまたま一緒にブッキングされていたのがまだブレイクする前のブルーハーツでした。
この時以前、TVKのミュートマJAPANでは、ヘビーローテーションで、PVがかかりまくっていまして、
「なんかすごいバンドが出てきた」
という印象でした。
実際に見た印象もまさにその通りで、音的には当時じわじわと出始めてきたビートパンクなんですが、なんとも言い難い勢いと滲み出るオーラに圧倒されてしまいました。
ブルーハーツとは縁があって、その後何度かバイトでやっていたたむとむの警備員として生で見ることが出来ました。

ラフィンの項で書きましたが、ブルーハーツって、パンク本来のものとはかけ離れてると思うんです。『パンク』が市民権を得ていく上で出るべくして出たバンドだと思うんですが…。
歌詞の内容とかってモロフォークだし、でもあのヒロトのキャラとパフォーマンスがなければブーム自体もそれほど長くは続かなかっただろうし、自分的には賞賛半分批判半分といったところか。まあBOΦWY自体もロックな西城秀樹っていってしまえばそれまでだし。
それでもメジャーデビューするまでは結構夢中で聞いてたけど…。

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Thursday, May 25, 2006

第5回 : バンドブーム前夜

さて、誰も見ていない日記帳状態のこのブログで、更に自己満足のみのために続けます。
第5回。
今回はBOΦWYが登場して始まったと言ってもいいバンドブームの夜明け前、いうなればこのBOΦWYのブレイクによってインディーズというものが身近になったわけですが、それとは無縁の真のインディペンデントなアーティスト達を紹介したいと思います。

そもそも日本のインディーズとしての始まりは、東京ロッカーズという一つのムーヴメントの始まりに起因するように思う。ロンドンのパンクムーヴメントに呼応するように、フリクション、リザード、S-KEN辺りが今までの日本のロック、はっぴいえんどとフラワートラベリンバンドの日本語のロック論争のはじまりからこっち、キャロルやミカバンド、関西のブルース系といったその流れを正当に汲んできた本来のジャパニーズロックと原田真二やツイスト、初期のCHARなど、歌謡曲に取り込まれた商業ロックともにどちらにも属さない第三の波として現れた。今で言うとオルタナティヴ系とでも言うべきか。

その後、プラスティックスやヒカシュー、P-MODELなどがその流れに加わりパンクニューウェーブという当時ではまだアンダーグラウンドな存在ではあったが、一つのジャンルを確立し最初の黄金時代をYMOのブレイクとともに迎える。しかしこの頃はバンドブームのような一般に市民権を得るまでにはいかずYMOだけが脚光を浴び、スターリンが登場するとそのエキセントリックなパフォーマンスばかりが取り上げられ次第に『キワモノ』として扱われていくようになる。
当時はまだ「インディーズ」という言葉は定着してなく「自主制作」か「メジャー」で、「インディーズ」という言葉は、そのシーンを指して言うものだと後に定義されてたように思う。

シーンが再び地味ながらも活性化の兆しを見せてきたのがガーゼ、オート、ギズム、あぶらだこ、ラフィンらのハードコアパンクの台頭とジャパンやバウハウスの影響下から生まれたポジティヴパンク、オートモッドや、YBO2、G-シュミット、ソドム、サディサッズなどの登場。女だけで編成されたガールズバンドの祖ゼルダ。キワモノ系でも非常階段、ステージに重機を持ち込んで客に誓約書を書かせて、しまいにはチェーンソーで自分の腕を切ってしまったハナタラシなど、群雄割拠、次第にその流れは東京から全国に広がっていく。

81年に一応のデビューをしたBOΦWYは、ビーイングを離れプライベートオフィスを設立し活動自体はインディーズそのもの。布袋と高橋はオートモッドにも参加して、特に布袋は『デストピア』では、サウンドプロデュースまで手がける。後に山下久美子やBOΦWYなどで見せるサウンドワークはこの時すでに才能の片鱗を見せていた。1984年に『INSTANT LOVE』発売。当初ジャパンレコードから発売予定だったが倒産、徳間に抱えられる形でようやくリリースされたこのアルバムは、予算的な問題をメンバーそれぞれがバイトをしながらスタジオ代を捻出した自宅録音の延長上にあるような軽い音が目立つが、それをカバーしても余りある布袋のサウンドワークが光る自主制作的なスタンスで作り上げた傑作。後にEMIからリリースされる『BOΦWY』が自分的には最高傑作ではあるが、この『INSTANT LOVE』のチープ感が漂うニューウェーブ的なアプローチが意図されて出来たものではないにしても結構好きだったりする。

さて、この時期というのはアイドル全盛の時期でもあって、まもなくデビューしたてのチェッカーズと吉川晃司をインディーズの連中も意識するようになる。インディーズであることの焦燥感、スターになっていくプロセスをテレビからまざまざと見せ付けられる格好に嫉妬した。所詮はアイドル。奴等とは違うと割り切ってるつもりでいた。
この頃、少年サンデーに連載されていた漫画、上条敦士の『TO-Y』がある。
まんま模倣された哀川陽司のバックバンドにパンクバンドのヴォーカリスト、TO-Yが、ベーシストとして加入していくという初期の導入部、このシチュエーションだけで、この日本におけるロックのあり方を物語っている。結局、長いものには巻かれてしまうのである。そのつもりはなくても…。
TO-Yはこれを足がかりにソロとしてデビューし、自分のやりたいようにハプニングを連続させていくが、所詮は、これを利用してバラエティーへと変えていく芸能界のやり方に押し潰されて消されようとした。
何が言いたいかというと、この時すでに、この架空の人物TO-Yの方法論がこの漫画とほぼ同時発生したこのインディーズ、バンドブームの終焉を予見していたと思えてならない。
利用してやるつもりで格好つけても大局的に観れば利用されて、搾取されていたのである。

チェッカーズ、吉川の成功によって再び乱立し始めた歌謡ロック。YMOが散開。アナーキの辺見が妻を刺して殺人未遂で逮捕、活動停止。スターリンが解散。そしてBOΦWYがEMIに移籍、ベルリンでレコーディングした『BOΦWY』をリリース。
日本のロックシーンが変貌を遂げつつあるとき着目されたのが、このインディーズシーンだったのかもしれない。

そして三つの神輿を祭り上げてお祭り騒ぎの序章は始まろうとしていた。

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Wednesday, May 24, 2006

第4回 : PERSONZ

PERSONZは、当時一番好きなバンドのひとつで、コピーバンドもやりましたし、ライブにも一番足を運んだバンドでした。
プレメジャーデビュー盤と言っても差し支えない2枚のミニアルバム、
『Romantic Revolution』
『Power Passion』
の完成度の高さは、インディーズと呼ぶにはちょっと気が引けるものがあります。これもひとえに本田毅のギターワークと渡辺貢のソングライティングに尽きるのではないのでしょうか。
ちょうどこの頃BOΦWYがブレイクし始めた頃で、布袋のようなメタル系のテクニック至上主義でない、音色やフレーズで聞かせる感覚的なギタリストが注目され始めた頃だったような…。
で、この2枚のアルバム、当時はなかなか手に入れることが出来なくって、だいぶ後になってから同じパーソンズのライブ仲間だった女の子から拝借。未だに返していません。

自分もコピーバンドをやっていたんで苦労したんですが、パーソンズの曲は変拍子や変な頭打ちが異様に多いこと。よっぽどリズム感が備わってないとバンドで合わせるのはかなり難しい。しかし、これがある意味逆に打ち込みっぽい正確すぎるノリに変換されてしまいバンド特有のグルーヴ感と言うものが欠けていたのも事実。特にメジャーのファーストは顕著。
ライブでは、その辺はあまり感じ取ることは出来なかったけど藤田勉のドラムは最後まで好きになれなかった。

一番最後に観たインクのライブでの『Dear Friends』を、一緒に行った好きな女の子と合唱したのが思い出されます。

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第3回 : 有頂天

三回目は、ウイラード、ラフィンと来たら有頂天をやらないとね。
御三家その3。

個人的には、有頂天って、あまり好きではないんですよ。
ブス揃いのナゴムギャルも大嫌いだったし。ただ、当時有頂天を含むナゴムって、インディーズの中では異質な感じだったし、宝島に出していた広告のケラのチラシの落書きみたいなワケのわからないイラストに惹かれるものはありましたけどね。

その昔、横浜のVIVREの最上階ライブハウスの隣に申し訳程度にインディーレコードがおいてあるコーナーがありまして、そこで初めて買ったのが有頂天の

Dhyou

『土俵王子』
のピクチャーレコード。
当時は、新宿のエジソンや高円寺あたりのレコード屋、もしくはディスクユニオンにでもわざわざ出向かないと手に入れられないレアなものばかりで、いつもスタジオ代で出費の絶えない貧乏高校生だった自分は、友達から借りたコピーテープをさらにダビングするという、せっかく買ってもらったパイオニアプライベートで、音質劣化しまくりのテープを擦り切れるほどに聴いていました。
この『土俵王子』。そのプライベートのプレーヤーの針を落としてみると…
「なんですかこれ?」
「イミがフメイ」
まさにジャガー状態なんですが、これこそが有頂天であるという、言葉の無意味感なんですね。
あえて、歌詞に意味を持たせないケラの手法にうっかりと乗せられてしまったわけです。
有頂天というとどうしても最初に出てくるのが、チューリップのカバー「心の旅」。
後はうーん…メジャーで出したファーストも好きになれなかったし。
ただ、のちに知ったことなんですが、有頂天って実はP-MODELあたりの人脈の流れで出てくるバンドっだったりするんですね。

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